先日KAKASHIの10周年と、前橋DYVERの16周年を祝うKAKASHIのワンマンライブが終了した。
二度とない機会なので10年を振り返ってみようと思います。
先述しておくと、俺は出来事は思い出せるけど時系列は壊滅的に憶えていられない。
「こんな事あったじゃん、あれいつだっけ?」
という質問を世界一している自信が世界で5番目くらいにある。
何回かに分けるかもしませんが悪しからず。
10年前、2012年に結成。
改めて記すが、俺、マサ、中屋敷は同じ専門学校に通っていた。
3人とも高校生の時に高崎のライブハウスで出会い、なんとなく縁が続いた3人だった。
ゆうすけはと言うと、マサと昔からバンドをやっていて、バンドを始めるにあたってマサが連れてきたドラマーだった。
余談だがゆうすけの事は俺が高校1年生の頃にバンドオーディションで見かけた事がある。
スラっと背が高く、髪型も、制服の着こなしもキマッていて俺は「岡田将生だ!!」とマジで思った。
岡田将生とバンドやる日が来るとは。
初ライブは同じ年の渋谷DESEO。
専門の同級生が企画した「東京大作戦」というオールナイトイベント。
20バンドくらい居た気がする。
様々なバンドが出ていたが、度肝を抜かれたアーティストが居た。
名前は忘れたが、ステージに机、その上にパソコンを置きヘッドホンをした。
その後30分間無音だった
音響トラブルなのか、なんなのかは分からないがとにかく持ち時間いっぱい無音だった。
5分ほど経過して「もう見なくていいかな」と思ったが、その後に何か起きたらヤバいし、それを共有出来ないのは辛いと思った。
しかし無音で終わった。
15分ほど経過して、みんなのヒソヒソ声も逆に静かになる頃
なんとなく虫の声が聞こえた気がした
多分そんな気がしただけなんだと思う。
もう一度会ってアレがなんだったのか聞いてみたい。
俺たちのライブはというと、同級生に見守られる中で精一杯のイキりをブチかまし、朝焼けの中すき家を食って帰路についた。
リハーサルは中野サンプラザ地下のVOXというスタジオ。
地元埼玉から専門学校のある千代田区の市ヶ谷まで通い、深夜から練習し、そのまままた学校へ戻り、地下室で眠る。
最悪の場合、そのまま授業を終えてコンビニの夜勤を終えて、そのまま学校、練習…
という今は絶対に再現できない生活を送っていた。
でもそれが案外悪くなく「やってる感じ」がして、むしろ気合充分だった。
そうこうしてるうちに初のデモCD「残像」を作った。
それは確か、専門のレコーディング科の友達に録ってもらったような気がする。
空のCDにパソコンで1枚1枚手焼きして、ジャケットは裁断機でカットして、ケースも買って、手で詰めて。
バンドやってるなあ、って思った。
その雑草感が誇らしかったりした。
俺は専門を卒業したら就職する気満々だった。
音響の学校で、先生からも仕事先を紹介してもらえたり、何より俺自身がその世界に身を置きたいと思っていた。
当時は卒業と同時にバンドも終わり、俺は裏方になるんだとばかり思っていた。
しかしマサの野郎が「お前はバンドやるよ」なんて言ってきて
「うっせーなバカがよ」
と思っていたのも束の間、あれから10年も経ってしまった。
というのも、俺は今までボーカルとして誰かに必要とされた事はなく「お前とやりたい」と初めて言ってくれたのがマサで、そんな青春映画のワンシーンみたいなシチュエーションに甘んじて乗っかってしまったのだ。
後悔していないかと聞かれたら、今は半々。
だけどこれから先でその半分を英断に変える事は出来ると思っている。
というのも10年経った今やっと気付けたような事で、当時は後悔の方が強かった。
「なぜあの時バンドを続ける選択をしてしまったのか」という問いかけが常に自分の中にあったままだった。
あっという間に専門学校を卒業し、無事に社会不適合のフリーター自称バンドマンへと成り下がった。
人生初の1人暮らしが始まった。
叔父と2人、軽トラを転がして引っ越しをした。
その頃、俺は叔父と2人暮らしだった。
俺が家を出れば互いに1人暮らしになる。
引っ越しを終えて1人帰っていく叔父の背中の寂しさを俺は一生忘れない。
ピザ屋のバイトを始めた。
コンビニの場所さえろくに分からないこの街を知るには、バイクのデリバリーが1番だと思ったからだ。
何の縁か住み始めた相模原という街を、しっかりと第二の故郷にするつもりで愛したいと思っていたから。
誰も俺の事を知らない。
新しいバイト先では、埼玉から来た20歳のフリーターという謎の男。
地元民で長く勤めていた先輩たちからは、普通に嫌がらせをされた。
時効だから書くが、注文の無い時間で勝手にピザを作って食べる先輩たち。
一方コンビニでご飯を買って食べる俺。
先輩が「堀越も食べる?」と聞いてくる
「いいんですか?」と聞き返すと
「今食ってるピザの名前分かったら食っていいよ」との事。
出勤2日目の俺に分かるわけがない。
俺はその日ピザを食べる事は出来なかった。
小さな事だが、初の1人暮らしの俺のメンタルに傷をつけるには充分すぎる仕打ちだった。
慣れてきて会話が出来るようになったが、1人のゴミカスからは「配達金に入ってるお店の2万円を1日だけ貸して欲しい」と頼まれた。
断った。
マジ沸いちゃってんなと思った。
そんな風に擦り減らしながらも必死に働いた初の給料は12万円。少なすぎる。
ピザ屋は注文の無い時間は休憩扱いになり時給が発生しないのだった。
だけどまあそれなりに楽なぬるま湯で「このままじゃよくないなあ」と思いながら2年も長居してしまっていた。
結局この街を離れるまでピザ屋だった。
バイトの話ばかりになったが、その頃のバンドは初のミニアルバムを作った頃だった。
「一寸先をヒカリへ」というミニアルバム。
どう考えても1枚目のミニアルバムなのに2nd mini Album。
マサが言うには昔作った4曲入りの「ドラマチック」というCDが1stのミニアルバムになるのだそう。
自信も持ち始め、色も着き始め、自分たちがどんなバンドで、どう進んで行くべきなのか、少し見えながらもどんどん出てくる素晴らしいバンド達にブラされ続ける毎日だった。
当時聞き込んでいたのはMy Hair is BadとSUPER BEAVER。
どちらもファンで、椎木さんは一度どこかの高速のSAで見かけて音源を渡した事があるくらいにはただのファン。
ビーバーに至っては配達中に一生聞いていた。
確かその頃出た「らしさ」という一曲には俺のバンド人生における名曲ランキングを軽々と飛び越えていく程の衝撃を受けたのを覚えている。
ああなりたい、こうなりたい、の大部分を2バンドが占めていた。
憧れて、真似して、近付けた気になってはその距離の遠さにへこんだ。
俺は俺以外の誰にもなれないんだと、憧れが身に沁みて突き刺さった。
誰かになれないなら、何かになりたい。
そう思っていた21歳の俺であった…
(そのうち続く)